先日、英語にはあって日本語にない概念、またその逆という記事を書きました。
その根底にあるのは言葉というよりはその国の文化、人のメンタリティーであると。
たとえば、take it easyという英語は日本語にできない。そういう概念が日本にはないから。
逆に、「頑張れ」「根性を出せ」「気合入れろ」というような英語も存在しません。
この手の精神論を含むフレーズは、見事に英語に訳せないんですね。
そんなことを思っていたら、海外ニートさんのブログでまた興味深い記事を目にしました。
9時~5時でしか働けない(働かない)人間は、日本では昇進コースから外される、
というある記事に対する洞察なんですが、これが非常に面白いのです。
残業しない(できない)人が管理職になれないということは、
イコール、育児や出産という大イベントを抱える女性は弾き飛ばされることになります。
けれども、それは日本だけのお話です。
海外先進国においては、子持ちの女性管理職は掃いて捨てるほどいます。
その差は何なのか。
私は、かつてイギリス系企業で働いていましたが、
ディレクター(役員)の約半数は女性でした。
中には30代という若さの人もいます。
先進国ではそれが当たり前なのです。
ところが、日本の大手企業を見てみると、ほとんどが男性、しかもオジサンばっかりです(笑)
女性役員が一人もいない、なんて企業も珍しくありません。
そのくせ、日本人は自分たちはアジアで一番の先進国だと信じて疑わないのです。
何を寝ぼけたことを、という感じですね。
お隣の韓国にせよ、中国にせよ、女性役員はごろごろいます。
それも大手企業のお話です。
香港やシンガポールなどは、日本などとっくに追い越しています。
実際に香港やシンガポールで働いたことのある人ならわかると思います。
気が付いていないのは、日本のオジサンだけなのです。
なぜこんなことになっているのか。
海外ニートさんは、この国の抱える問題の多くは、労働環境に起因していると書いています。
私も、それは間違いないと思います。
けれども、ひょっとするとそれは逆なのではないかと思ったりもするのです。
言葉がその国の文化やメンタリティーを表すように、
その国の制度や社会構造も、人々のメンタリティーが作りだすものなのではないか。
つまり、
労働環境が異常だから多くの問題が発生しているのではなく、
そもそも多くの問題を抱えた精神性のせいで、
労働環境が異常な状態になっているのではないか?

私が思うに、個人の幸福や恋人や家族との団らん、take it easy的な価値観を
日本人は非常に軽視する傾向があるのではないでしょうか。
そういうことを大切にしている人に対して、
「たるんでいる」だの「甘えている」だの「ちゃらちゃらしている」だのと揶揄する向きがあります。
たとえば、女性や子供を大切に扱うことは、先進国の男性にとっては当然のことであり、
それが社会のコンセンサスになっています。
なので、世の中の男性はみな、仕事や会社よりも恋人やパートナー、子供を優先します。
誰も、仕事より女(家庭)を取るのか、なんてことは言いません。
役員クラスの男性でも、子供が熱を出したらとっとと帰ります。
当時の私の上司(イギリス人男性)は、奥さんが妊娠中だったので、海外出張を断りました。
代わりに、私に言ってくれないかと頼んできたので、もちろん快く代理を引き受けました。
オバマ大統領だって、娘の発表会のために会議を休み、毎日家族と夕食を取っているのです。
いったい、日本人サラリーマンでオバマさんより忙しい人はどれくらいいるのでしょう(笑)?
いやいや、アメリカ人だって物凄く残業もするし、24時間働いている人もいる。
そう反論する人もいるでしょう。
もちろん、います。
はっきり言うと、アメリカの役員、トップ経営陣の仕事ぶりと比べると、
日本の管理職など働いているうちに入りません(笑)
アメリカ本土は広い。
それこそ、今日はNY、明日はシリコンバレーと、
時差を越えて社用またはプライベートジェットで翌日の会議先に向かう。
そんなのが当たり前の生活です。
移動中もPCでメールチェック、次のプレゼンのパワポ作りと休む暇もありません。
がしかし、こういう人たちはみな、年収何百万ドル(数億円)を稼ぐ人たちです。
間違っても、月給手取り二十万以下のコンビニ店長だとか、
ノータイトル(平社員)なんてことはありえません。
上に行けば行くほど働かず、下のものばかりがこき使われる日本とは真逆です。
そして、彼らは日頃は分刻みのスケジュールで動いていても、
必ず年に1回は2週間以上のバケーションを取ります。
なぜそれが可能なのでしょう?
そこにあるのは、自分と自分が愛する者(物)を大事にする、
地位の高い人間や財産を持った人間は、そうでない者に対して義務と責任を担う、
いわゆるノブレス・オブリージュという概念ではないかと思います。
ある種の人権意識とも言いかえることができるでしょう。
そして、それは、人の心の中に自然に芽生えるものではありません。
教育を通して、学び身につけて行くもの以外の何ものでもないのです。
日本人は、小学校や中学校を通して、道徳の授業で人権について学びます。
がしかし、実際のところこれはダブルスタンダード以外の何ものでもありません。
それは学校のカリキュラムを見れば一目瞭然です。
日本の学校は必要以上に行事が多い。
やれ運動会だ、球技大会だ、合唱コンクールだ、文化祭だとことあるごとに行事があります。
また、クラブ活動がほぼ義務付けられていますね。
それも、気楽にやる、take it easy的なものでは全くなく、
ほとんどが遊びの要素を一切挟まないものです。
いまだに、体育教師のしごきで命を落とすという子供が毎年いるくらいです。
日本の子供は、まだ小さいうちから毎日が学校行事に追われることになります。
人は、急きたてられると冷静な思考力が低下します。
教師や周りの同級生のプレッシャーに潰されそうになりながら、
イベントの準備や放課後の居残り練習で日々忙殺されていくのです。
これが幸福と呼べるのでしょうか。
道徳の授業で言っていることと矛盾しています。
本当なら、学校が終われば子供たちをとっとと家に帰し、家庭生活を優先させるべきです。
家族とゆっくり過ごしたり、友達と遊んだり、ぼんやりしたり本を読んだり。
そういう時間は、人間にとって非常に重要です。
けれどもそうできないのは、これまた親が仕事に縛られて早い時間に帰宅できないからです。
何もかもが悪循環なんですね。
ところで、日本の学校に特有の、この部活というのがまた曲者なのです。
ここで子供たちは理不尽な上下関係や、先輩・後輩というダイナミズムを叩きこまれます。
面白いことに、これは反社会的なグループ、たとえば暴走族などの不良グループにおいても同じで、
年配者や古株のメンバーの言うことには絶対服従、といったルールがあるのです。
小さいうちからこういった意識を植え込む、そういう教育を学校で施しているわけですから、
これはもう洗脳と言ってもおかしくない状態です。
そうして大人になった日本人は、社会という枠組みの中で、
自分より年長者や先輩社員に対して、また、既成概念に対して、
何か批判的な見方をするということができなくなります。
批判的に物事を見る、というのを英語でcritical thinkingと言います。
アメリカでは、高校でcritical writingという授業があります。
何かテーマを与えられ、それに対して自分がどう思うかを作文にするわけですが、
そこには、必ずcritical(批判的)な視点が要求されます。
いかにして物事を批判的に捉えるか、そういう訓練を授業でさせるわけです。
日本は真逆ですね。
作文は、優等生的な模範回答が求められます。
それっておかしくない?なんてことを教師に言おうものなら、
子供のくせに屁理屈ばかり言う問題児、のレッテルを貼られかねません。
みんなと一緒、というのを知らず知らずのうちに求められるのです。
そこから逸脱すると、変わり者扱い、イジメの対象になってしまします。
以前、知人の大学講師(カナダ人)が、日本の英作文のテキストは使えないと言っていました。
それは、日本のテキストは、criticalに考えさせないように作られているからだと。
なのでこんなものは講義では使えないと言っていたことがありました。
日本人は、知らず知らずのうちに、批判的思考能力を奪われているのではないでしょうか。
そのほうが、国を治める側にとっては好都合だからだと思います。
海外ニートさんが、未婚または子供のいない既婚女性社員vs子持ちの女性社員の対立について、
なぜ子供のいない側が経営者視線になるのか不思議だと言っていますが、
これは、わかりやすい男尊女卑思想から来ているのだと思います。
日本社会において女性はヒエラルキーのほぼ底辺にいます。
低いところにいる者はさらに自分より低い立場の者を作りだして、
自分の足場を少しでも浮上させようとします。
男性は、「身を粉にして働いているのだからお前たち女は楽していいよな」と言い、
女性は、「家庭という枷にがんじがらめにされて楽しみを奪われている」と思っている。
だから自由に楽しくやっている(ように見える)独身女性を敵対視する。
独身または子無し女性は自分が男性側に立つことで、有意性を見出そうとする。
この国に根強く残る男尊女卑思想や、年功序列といった因習は、
歴史的に見ても昨日今日出来上がったものではありません。
江戸時代の身分制度の名残が強くあるのでしょう。
あいつよりはまだマシだと下を見ることで、お上にはたてつかない。
トップにとっては非常に好都合なわけです。
派遣職員と正規職員の対立なども同じでしょう。
本来、雇用される側として同じ立場のはずなのだから、協力し合ったほうがよほど建設的です。
職員同士がいがみ合い、経営者はそれを上から見てはほくそ笑んでいるのです。
そのことに気づかないよう、巧妙に洗脳されているのです。
このマインドコントロールを解かない限り、悪循環は永久運動のように続くような気がします。
私は常々、日本の英語教育が一向に進歩しないのは、
本当のところは、国がそう望んでいるからではないかと思っています。
日本人がまともに英語が読める(話せる)ようになると、CNNやNYタイムズなど、
海外のメディアの情報を、何のバイアスもなくそのまま仕入れることができるからです。
英語ができると、海外に目が向きます。
外国の人たちと話をすることで、日本の異常さに気が付きます。
これはおかしいぞ、とみんなが思い始めると、国は大きく揺さぶられることになります。
それは、為政者にとっては極めて不都合なことなのではないか。
そんな風に思えてならないのです。
そういう意味でも、英語を勉強することは非常に意味があることだと思います。
外国語を知ることは自国のメンタリティーや文化を知ることです。
たとえばそう、take it easyって表現、日本語にはないなぁと思うだけで、
それってどうしてだろうとクリティカルに考え始めるきっかけになります
なぜだろう、何かがおかしい、
英語は、そういった“気付き”をもたらしてくれる一つの武器なのだと思います。
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